日本医科大学千葉北総病院を拠点に、救急医、外傷外科医として、同院救命救急センターを屈指の外傷治療施設に育て上げる。全国にドクターヘリを普及させたヘリコプター救急医療の第一人者であり、この期間、日本における外傷外科医として「トップナイフ」の名声を得た。DMAT(災害派遣医療チーム)隊員として、平成19年の新潟中越沖地震、同23年の東日本大震災などにも出動した。千葉県庁における新型コロナウイルス感染症対応を契機に、非常時でも強靭な医療態勢を持つ必要性と、脆弱な国の危機管理を認識するに至り、政界への転身を決意、自民党の公募に応じた。
令和3年秋の衆議院総選挙において千葉県第13区から立候補、初当選。令和5年9月の第2次岸田第2次改造内閣において防衛大臣政務官に就任。令和6年10月の総選挙での再選(2期目)を受けて石破内閣において外務大臣政務官に就任。令和7年10月の高市内閣組閣において現職。